2010年5月アーカイブ
大学がキリスト教系だったので、学生時代に聖書にチャレンジしたことはあった。
あったが、あの分厚さと矛盾だらけの内容に、創世記の初めの方で挫折していた。
さて、学生時代の聖書のほこりを払ってみたが、やはりその分厚さに圧倒される。
そんなとき、たまたまのぞいた書店で、『聖書の読み方』(岩波新書)を見つけた。
本書は、特定の教派によらず、自主独立で聖書を読む人を対象に書かれた書で、何故聖書は読みづらいかに3分の1ほどの分量をあてている。
一行一行が納得。
その後、聖書の読み方と、簡単な読書案内が続く。
とても平易な文章で書かれていて、読みやすい。
読み終わると、あの難攻不落に思えた聖書の構造が解きほぐされ、石段がつけられたように感じた。
世の中に名著は多いが、このような書物をこそ名著というんだろう。
悲惨な事件が起こった。
大阪市東住吉区の路上で、嵯峨根瑞奈ちゃんが女に刃物で刺され重傷を負った事件。
逮捕された玉置雪花容疑者が「子どもを殺したかった」と供述していることが分かった―とか。
精神分析ではどう考えるのだろう。
イドとエゴとスーパーエゴの力動と考えるのだろうか。
交流分析ではどう考えるのだろうか。
突然何かの拍子にCCがRCに変貌したととらえるのだろうか。
そしてその原因としてストロークだとか、禁止令だとか、アタッチメントだとかを考えるのだろうか。
メダルト・ボスは『衝動と精神とを通分不可能な2つの現象』と呼んでいる。
V.E.フランクルは、「責任ある存在が停止した時に、本来的な真実の人間としての存在もまた停止する」と言っている。
衝動にだけ突き動かされる人間は、もはや真の人間とは呼べないと言っている。
今や「人間とは責任を負うた現存在である」という真理を思い起こす時ではないだろうか。
ヴィクトール・エミール・フランクルの源流を求めて、ハシディズムからユダヤ教まで遡ってしまった。
『フランクル回想録』にも、「そういうことで、私はマハラールの12代目ということになる」とある。
ユダヤ教―勿論それを理解したと言うわけではないが―まで遡ってみると、フランクルの主張する、「われわれ人間は、精神的存在であり、それゆえにこそ責任存在である」という趣旨が実感として理解されてくる。
さらに、ゾロアスター教からタルムードまで遡ってみたい気もするが、アウトカムを思い起こし、もとの地平に戻ろう。
文学青年に戻ったように、トルストイの『イワン・イリッチの死』を読んでいる。
一官吏が不治の病にかかって肉体的にも精神的にも恐ろしい苦痛をなめ、死の恐怖と孤独にさいなまれながらやがて諦観に達するまでの経過をえがく。
何の変哲もない人間の死を描くので、初めから淡々とした描写が続く。
若いときならともかく、やはりこの年になるとまどろっこしい。
結論が知りたくなる。
途中を斜め読みして結論を読む―
死とは何だ?
恐怖はまるでなかった。なぜなら死がなかったからである。
死の代わりに光があった。
「ああ、そうだったのか!」彼は声にたてて言った。「なんという喜びだろう!」
そして、彼は息を吸い込んで、ぐっと身を伸ばしてそのまま死んでしまう。
◆
それだけだと言ってしまえばそれだけの話しだが、ふっと心にわき上がってきたものがあった。
フォーカシングでいう、フェルトセンスのような。
かつて、憎しみ、怒り―そんなものが天女になって、右の肩から昇天していったような・・・。
なんだか懐かしいような、安らぎのような。
そんな感覚がわき上がってきた。
今月の13日に、愛知県職員を対象に、講演をすることになっている。
意味のある生き方をテーマにお話しする予定だが、理解を深めていただくために、3つのワークを入れることにしている。
昨日、最終的に時間配分を検討してみたが、どうも3つのワークをするには時間的にきつい。
そこで、2つ目のワークを省くことにした。
2つ目のワークは、「相手を褒めることは、実は自分がうれしい」ことを体感していただくワークだ。
その日の夕方、あるセミナー紹介の雑誌が届いた。
表紙に大きく見出しが書いてあるのが目に飛び込んできた。
パッチ・アダムス来日、半日体験ワークショップ
えっ、何故パッチ・アダムス!!
偶然の一致にしてはできすぎている!
実は、省こうかと思っていた2つ目のワークは、パッチ・アダムスの考え方をもとにして構成されたワークなのだ。
2つ目のワークだけは省くな!という啓示―かも知れない。
私にはよくこういうことがある・・・。
人生はやり直しがきかない―と言われる。
そのとおりだと思う。
だから、今を精一杯生きる。
でも、なかなかそのようには生きられない。
だから、結局いつも、人生やり直しができたら―と思ってしまう。
それに対して、フランクルが、衝撃的な―というより感動的な提言をしてくれている。
あたかも、二度目の人生を送っていて、一度目は、ちょうど今君がしようとしているようにすべて間違ったことをしたかのように、生きよ。
となると、今は二回目の人生を生きていることになるわけだ。
一回目の人生の轍を踏まぬよう生きることができるわけだ。
要するに主観的な幸福度と所得との間にどんな関係があるか、ということを検討した論文だ。
・イースタリンの逆説
・相対所得仮説
・順応仮説
が紹介されている。
◆
幸福について、ヴィクトール・エミール・フランクルはこう言っている。
真の幸福は、自分以外の他の何らかのものに向かって、自分を忘れて専心することの結果として実現されるのであって、其れを目標として直接的に追求することはできない。
フランクルは、これを「幸福のパラドックス」と呼んでいる。
このパラドックスは、成功にも自己実現にもあてはまる。
だから、幸福と所得との関係を追求する理論は、二重の意味で無意味なのではないか―そんなことを感じた。
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