2010年9月アーカイブ
今日62歳の誕生日を迎えました。
もう何年も前にGメン75というテレビ番組がありました。
エンディングテーマが気に入っていて、今日もふと思い出しました。
はるかなあこがれ、だきしめようと
手探り歩いてこの日まで
かなわぬ想いか 届かぬ夢か
それでも歩こう この道を
今日は多くの方から―思いがけぬ方からも、素晴らしいストロークをいただきました。
本当にいい62歳の誕生日を迎えることができました。
ありがとうございました。
イチロー選手の10年連続200安打について、米大リーグでシーズン200安打を10度達成したピート・ローズ氏がこんなコメントをしていた。
200安打に到達するには、次の3つの要素が必要だ。
①健康であり続けること。
②試合に出ること。
③ヒットを打つこと。
淡々と言っているようで、どれも当たり前のようで―。
ところが、一つひとつ我が身にあてはめてみると、この3つがどれほど難しいことかが分かる。
「・・・続けること」―心していきたい。
書店に来年の手帳が並ぶ季節になった。
いつもよいリフィルはないかと物色するのだが、これだ!というリフィルは少ない。
特にマンスリー(月間予定表)にはいいものがほとんどない。
予定表というものは、常に先が見えていないといけない。
月末と翌月の月初が常につながっていないといけない。
超整理手帳が8週間を一覧できることを売りにしているようだが、週が進むたびに一覧性が低くなってくる。8週間目には後がない。
◆
来年のマンスリーは自作することにした。
A5版型。
月末と翌月の月初が常につながっている。
要するにキャタピラー方式にすればいい訳だ。無限軌道方式。
A5を1ヶ月分にすれば、見開きで常に4ヶ月分が一覧できる。
A5の見開きで1ヶ月分にすれば、常に2ヶ月分が一覧できる。
試作品が完成したので、まずは来年使ってみて、よければ公開してもいいかなと思っている。
人事の世界でコンピテンシーが一世を風靡したことがある。
私も現役の時代は、成果主義人事制度などの制定やら運用やらに携わっていたが・・・。
社員にとっては、スキルとコンピテンシーの違いが中々分かりづらかったようだ。
先日9ヶ月になる孫が我が家に遊びに来た。
目にするものは何でも手にしないと気がすまない。
私がたまたま黄色い消しゴムを手にして立っていると、目ざとくその消しゴムを見つけ、超スピード這い這いで私に近づいてきた。
たまたま私の立っている隣にミネラルウウォーターの6本入りの箱が置いてあった。
私を素通りしたかと思うと、その箱に手をかけて立ち上がり、手を伸ばして私の手から消しゴムを取ろうとした。
私の手から消しゴムを取るには、確かにその位置がベストだ。
こんな小さい子にこんな智恵があるとは―と思わず絶句してしまった。
コンピテンシーとスキルから考えてみるとこうなる。
這い這いしたり、掴まり立ちをするのがスキルだ。
私の手の中の消しゴムとの相互作用の中で、発揮された掴まり立ちの力がコンピテンシーなのだ。
交流分析では、これをリトル・プロフェッサー(小教授)云うのだが、バーンは本当に適切な名づけをしたものだとつくづく思う。
今9ヶ月の彼女は、私にとってもまさに小教授だ。
いささか旧聞に属するが、易占の記録として。
民主党代表の話題がかまびすしくなった頃。
8月24日に、小沢さんが首相になるかで一筮。
風火家人六四
爻辞は、富家大吉で大変目出度いようだが、得卦は家人。
四爻という位からも、一国の首相というよりは補佐役だろう。
例えば官房長官のような。
しばらくして突然小沢さんが代表選に出馬の報が。
菅さんは代表選に勝てるかで。
火雷ぜいごう九四
爻辞から言っても手強そうな九四を噛み砕いてとおる。
爻辞には、金矢を得るとある。
ただ象伝には、未(いま)だ光(おお)いならざるなり―と。
菅さんが小沢さんを破り、代表選を制するが、必ずしもそれで万々歳ではなく、艱貞に利ろしだろう。
結果は占のとおり。
ちなみに菅政権の今後を一筮すると。
火地晋上九
今後の小沢さんとの確執とその結果が見て取れるようだ。
体験学習をメインにした新任マネジャー研修を行なって、受講生からこんな感想があった。
○各研修生を一人ひとり目視しながらの説明を行っているため、気が抜けない状態であった。
○どんな意見に対しても一意見として真剣に受け止めてもらえるため、発言しやすい環境をつくっていただいているなと感じます。
前者の感想には思わず笑みがこぼれた。
後者―彼は今まで、真剣に自分の話を聴いてもらえる経験がなかったのかも知れない。
新任マネジャーとして部下に対しても同じような姿勢をとってしまうかも知れない。
話を真剣に受け止めるということを、ゴールデンストロークというのだ―という趣旨を返信した。
いずれにしても、講師として自分なりに気をつけているところに気づいてもらったことが嬉しかった。
日経9月4日の夕刊に、認知心理学者の正高信男さんが「孫育てのワナ」というエッセイを書いていた。
▼団塊ジュニアに子どもが生まれ、孫に惜しみなく愛を注ぐ団塊世代の新米祖父母が世にあふれている云々。
私のところにも、息子と娘にそれぞれ子どもが生まれたので、ときどき2人の孫に囲まれることになる。
孫が生まれる前は、自分のことを何と呼ばせようかと真剣に考えたことがあった。
おじいさん―では、ちょっと抵抗感がある。
かといって、お父さんのお父さん―では、孫に混乱を与える。
その他に何かいい智恵は?―考えあぐねている間に次々と孫が誕生。
で、今は、孫に囲まれるて、「おじいちゃん」と言われて、抵抗感なく受け入れている。
何となくそぐわないとは思いつつ・・・。
正高信男さんは、「孫育てのワナ」をこう結ぶ。
▼確かに孫は理屈抜きにかわいいでしょう。ただそのかわいさはノスタルジー、老いの自覚の裏返しだということも確かです。
今朝(9月2日)の日経朝刊の「春秋」に、新監督のアルベルト・ダッケローニ氏にからめて、こんな文が乗っていた。
「じゃあ騎手になるためには馬である経験が必要かい?」。
プロのサッカー選手だったことがないイタリア人の名将アリゴ・サッキ氏はそう言ったそうだ。
思わず膝をうった。
カウンセリングを習い始めの頃、クライエントの悩みと同じ経験をしないと共感などできないと思っていた。
名騎手になるには馬の経験は必要ないし、名カウンセラーになるにはクライエントの悩みの経験は必要ない。
イタリア人はうまいことを言う。
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